2020年5月20日水曜日

NO205 「神様のこと」

親や教師が子供に対して「あなたがが悪いことをしても、よいことをしても神様はちゃんと見ていらっしゃるのだよ」と言って教えるのが、最も自然な普遍的な教育方法だと思うのだが、わが国ではそれは言えないことになっている。「神」という言葉は差別用語と同じく、口にしてはいけない言葉のようである。日本人が海外へ出て、各自が帰依する宗教の話になったとき、平然として「自分は無宗教だ」と言うものだから気味悪がられるという。外国人がそう尋ねるのはおそらく、あなたは自分の根拠をどこに置くか、エホバに置くか、アラーに置くか、ブッタに置くか、という意味である。ところが日本人にとってはたいてい、宗教とは葬式の様式か、せいぜい「心のやさしさ」のことで、なくてはなくても困らない”オプションのアクセサリー”であり、自分は宗教などというものに関わるほどひまでも迷信家でもない、という意味でそう答えるのだろう。ところが「ではあなた方はどうやって子供を教育するのか」と聞かれた時に困ってしまうのである

~渡辺久義氏より~

所長視点)
日本人でも神様を否定する人はそれほど多くはない。なんとなく「見守ってくれている」「自分の心にいてくれる」というぼんやりとした感覚でとらえているようです。そこに「あなたの存在の根拠は神様です(神様がいたから私がいる)」と言われると「そこまで強くは信じていないし、縛られたくない」思いが湧く。それは、どこまでも自分が主体です。
それでも生きていくことはできますが、とらえ方が狭く、人生において対応できないことが出てきます。神様を受け入れるというのは、宗教に入る入らないの問題というより、どこに中心を定めて生きていくのか、という「生き方」の問題と感じます

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