2020年5月20日水曜日

NO195 「人為的な意図」

しばしば、政治家や経営者で瞑想や座禅を組むことを習慣にしてる人もいるが、多くの場合文字通りの「無念無想」の状態に入ることはなく、坐禅中も、湧き上がる雑念との戦いを行うか、ときには、足の痛みに耐えながら座禅を組み続けるというレベルに終わってしまう。では、なぜこうしたことが起こるのか。なぜ瞑想という技法が難しい技法なのか。その理由は瞑想というものの本質が、正しく理解されてないからである
瞑想とは「行う」ものではない
瞑想とは「起こる」ものである
すなわち、本当の瞑想の技法とは、意図的に心を瞑想の状態に「する」のではなく、ある瞬間に心がふと瞑想の状態に「なる」ことを待つ技法なのである。
逆に言えば、瞑想も座禅も、それがうまくいかない理由は、そこに「人為的な意図」があるからである。「無念無想の状態になろう」「瞑想の状態になろう」という人為的な意図そのものが、まさに「雑念」なってしまい「無念無想」にも「瞑想の状態」にもなれないという逆説に陥ってしまうのである

~田坂広志氏~

所長視点)
心と向き合うのに、「人為的な意図」はとても厄介な代物かもしれません。自分ではこうしよう、こうなろうとすればするほど、心はその逆の状態になってしまう。「人為的な意図」でもって、心をコントロールしようとしても結果はでることはあります。しかし、それは心が疲れたり擦り切れたりしてしまいます。長く続かない。
感謝できない環境を「感謝いなきゃ。感謝しなきゃ」と人為的な意図でもって心をコントロールしようとしていると疲れます。感謝できない環境のときは「感謝できてないな…」と深く受け止めていく。自分の心に寄り添うことにもつながります

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