2020年9月28日月曜日

NO349 「アイマイの美学」

日本語全体としてみると、ヨーロッパ語に比べて、いちじるしく明晰さに欠けて、アイマイである。明治以来、日本人は、それを論理性の欠如のように考えて、ひそかに恥じてきた。しかし、ありのままではなく、あえて、美しい、おもしろいことばで表現するのは、洗練された文化にしかおこらない。アイマイであるのは、百も承知である。むしろ、そういうアイマイさこそのぞましいと考える。

ハダカで平気なのは、むかしの田舎のこどもであった。ものごころがつけば、着物が気になる。大人になれば、ときに分不相応の衣装を身にまとう。ことばにおいても、それに似たことがおこっている。幼いものは、ハダカのことばを使って平気である。しかし、すこしものごごろがつくと、ことばを選ぶようになる。大人になれば、さらに洗練されたことばのおしゃれをする。このことばの洗練という点において、日本は断然、先進国である。アイマイは平和なことばである。やさしい気持ちがアイマイを生む。アイマイの美学は一日では生まれない。洗練という伝統の中でみがかれてはじめて輝くようになる。

~ 外山滋比古さんより ~


所長視点)
外山さんは、日本人の「包む」文化が言葉の洗練さにも表れているといいます。わざとわかりにくい、不明瞭なことばを使うのは、相手へのやさしい気持であるからで決して、ことばがおくれているわけではない。たとえば日本においては、香典や病院のお見舞い、結婚式のお祝いにむき出しでお金を持っていく人はいない。言葉もこれと同じで、ムキ出しではなく、優しい気持ちを包むからアイマイになるのだという。それは、むやみに人と、争わない、ケンカをしないという大人の作法でもある。人生を豊かにするための日本人が練ってきた智慧なのかもしれません


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