2020年7月31日金曜日

NO293 「今を生きる」

苦悩の心の状態のときに起きる特徴は「今を生きていない」ことです。「今を生きていない状態」とは、意識が「過去」や「未来」ばかりに向かっている状態です。仕事をしていても、人と話をしていても、「今朝起きたこと(過去)」ゃ「明日やらなくてはいけないこと(未来)」ばかりに意識がいっています。過去を回想したり、将来のことを案じたりしているこの状態では、必然的にネガティブな感情が生まれやすくなります。注意が散漫になって仕事などのパフォーマンスが落ちますし、人のことが目に入ってこないので協力体制をつくるのが難しくなり、何よりの問題は、何をしていてもちっとも幸福感を感じられないことです。
心理学者の調査によると、人は1日の起きている間の46・9%もの時間を、「今」ではなく、「過去」や「未来」のことを考えながら生きていると発表しています。そして、過去や未来に意識がいっている割合が多い人ほど、幸福感も減少するのだと言います。たとえば仕事場までの道を歩いているとき、何を考えているでしょうか。家を出るときにケンカしたパートナーのことや、仕事で犯したミスのことを思い出したり、仕事のノルマや上司の顔が浮かんでくる、という場合は、今を生きていない状態(=苦悩の状態)です。
前述したように、この状態ではネガティブな感情が生まれやすく、仕事にも集中しづらく、人の話も耳に入ってきません。視界が狭くなったり、香りや味にも鈍感になっていきます。何をしていても楽しくない、心から感動する瞬間がない、いつも何かにとらわれて
感情が安定しない、そんな状態になってしまうのです。

~ 河合克仁さんより ~

所長視点)
苦悩というと「悩み苦しんでいる状態」をイメージしやすいですが、自然と感謝が溢れてこない状態は「苦悩の状態」です。本来の心の状態ではありません。何かに囚われている、こだわっている、自分という視点でしかみれない状態でもあります。「今を生きる」生き方…してみたいと思いませんか?

2020年7月30日木曜日

NO292 「浮かぶとき、沈むとき」

ある人が、水泳教室に行ったときのこと。
最初に、鼻をつまんで潜る練習を何回かやった後、「では、浮いてみましょう」ということになりました。体を水面に横たえて「浮く」努力をしましたが、浮こうとして(「沈みたくない」と思って)力を入れたら、ブクブクと沈んでしまいました。「先生、どうしても浮くことができません」と言うと、その先生は「そうですか。では今度は沈んでみてください」と言いました。
怪訝に思いながらも、鼻をつまみながら「沈んでみよう」と思ったところ、今度は沈むことができません。「もう、体を沈めてもかまわない」と思った瞬間、余分な力が抜けて、体が自然に「浮いてしまった」のです。つまり「浮きたい」と思って力が入っているときは浮かなくて、「沈んでしまってもかまわない」と全身の力を抜いているときは、逆に沈むことができなくて浮いてしまった、ということのようです。
この事実は、大変面白いことを意味しています

~ 小林正観さんより ~

所長視点)
願えば願うほど、心の正対作用によって反対の思いが深く刷り込まれていきます。「成功したい!」と願えば「どうせいままでも成功できてない=失敗している自分」という思いが心に固まっていくそうです。ではどうすればいいか?「一生懸命を楽しむ」これが願いが叶う最高の生き方だそうです。是非、お試しください

2020年7月29日水曜日

NO291 「呼吸の力」

緊張をとりたいとき、落ち着きを取り戻したいとき、私たちは「深呼吸」をします。なぜ深呼吸をすると心が落ち着くのでしょう。血流を調べてみると、呼吸を止めた瞬間に末梢血管に血液が流れにくくなり、見事にサーッと血流が引いていきます。このことで分かるのは、呼吸には瞬間的に体の状態を変える力があるということです。
緊張したとき、深呼吸をすると心が落ち着くのは、末梢の血流量が増加するからです。心に余裕があったり、安心したりしているとき、人の呼吸はゆっくり深く、緊張すると無意識のうちに速く浅い呼吸に変わります。こうした呼吸の差は自律神経のバランスの差になって現れます。ゆっくりとした深い呼吸は副交感神経を刺激するので、血管が開き、末梢まで血流がよくなります。そして、血流がよくなると筋肉がほぐすので、体はリラックスします。これが緊張したときに深呼吸をすると心が落ち着く最大の理由です。
緊張を抑えたい→筋肉をコントロール→筋肉をコントロールしているのは血流→血流をコントロールするのは自律神経。そして、現段階で自律神経を確実にコントロールできるのは何かというと「呼吸」なのです。呼吸が体に及ぼす影響はとても大きく、本当に一瞬にして体の状態を変えてしまいます。

~ 小林弘幸さんより ~

所長視点)
小林弘幸さんによると、心の健康も体の健康も自律神経のバランスが重要。呼吸は1吸って2吐く。これで心も身体も整うそうです。家族内がギクシャクしたときは呼吸を整える。ムカッとしたら呼吸を整える。お金はかからないし、どんなときでもどんな場所でもできます。試してみる価値はありますね。

2020年7月28日火曜日

NO290 「絶対受け身」

私は6歳になるまでのあいだに、3人の母と2人の父に育てられました。生みの親は私が3歳のときに離婚。父と父の再婚相手に育てられましたが、私が6歳のときに父が病気で他界。私は大人たちの話し合いの結果、父の再婚相手の兄夫婦にもらわれることになりました。
養母は私が10歳のときに骨盤カリエスになり、8年間寝たきりになりました。そして私が18歳のときに死亡。養母の白装束を縫い、木桶に養母を入れてリヤカーで火葬場に運びました。骨壺を胸に抱いて、ひとり家に帰ってくる私の姿を見た女性が、涙ぐみながら言いました。
「照子ちゃんはかわいそう。ほんとうにかわいそう」
私自身、自分の身にはなぜ次から次へと試練が課されるのかと考えたことがあります。でも、自分が「かわいそう」とは思ったことがありませんでした。
「私って、かわいそうなんだ」
他人に言われて初めて、自分の憐れさに気がつきました。亡くなった養母の骨壺が急に重たく感じられ、私は道端で嗚咽しながら泣きました。でも、ひとしきり泣いたあと、私は思いました。私の人生はたしかにふつうではないかもしれない。けれど、それが私に与えられた人生。私はもう「ふつうに見える人生」とくらべるのはやめよう。「ふつうに見える人生」にあこがれるのもやめよう。私は、私の人生を引き受けよう。そう決心したのです。
~ 美容研究家 小林照子さんより ~

所長視点)
「絶対受け身」は「絶対肯定」のことです。小林照子さんは
「いつまでも春にならない終わらない冬はない。明けない夜はない。つらくても苦しくてもいまが「学びの時間」。こんな人生のはずではなかったと投げやりになってしまうと、いまという大切な時間がただただ悲しいものになってしまいます。人生を投げ出すのか、引き受けるのか。文句を言って生きるのか、体験から学んで生きるのか。それを決めるのは自分です。自分しかいないのです。そして機嫌よく生きる」
こんな生き方に憧れます




2020年7月27日月曜日

NO289 「お金持ち」

私の個人的経験から言うと、多くの場合、勝利は敗北のあとにやってくるように思う。たとえば、自転車に乗れるようになるまでには、何度もころばなければならなかった。また、ボールを一個もなくしたことのないゴルファーにお目にかかったこともないし、一度も損をせずに金持ちになったという人にもお目にかかったことがない。たいていの場合、人が金銭的な成功を手に入れられない最大の原因は、金持ちになる喜びよりも損をする苦しみの方を考えてばかりいるからだ。テキサスにはもう一つ、「だれもが天国に行きたがるが、死にたがる人はいない」という格言がある。世の中の大部分の人が金持ちになることを夢見ているが、損をするの恐れるあまり何もしない。だから彼らは決して天国に行きつくことはないのだ。

~ ロバート・キヨサキさんより ~

所長視点)
金持ち父さん貧乏父さんの作者、ロバート・キヨサキさんは「貧乏なのはお金を稼ぐ量が少ないからではなく、考え方や行動の仕方が問題なのだ」といってます。そして恐怖心、臆病風、怠け心、悪い習慣、傲慢さがお金もちになるのを妨げるとのこと。本当の心の豊かさはお金からも愛されるようです。

NO289 「戒語」

良寛さんの「戒語」の中からいくつかを抜粋

一、ことばの多き
一、はなしの長き
一、問わずがたり
一、てがらばなし
一、じまんばなし
一、おのが氏素性の高きを、人に語る
一、人のもの言いきらぬうちに、もの言う
一、差しで口
一、人の話のじゃまをする

~ 良寛禅師戒語 より ~

所長視点)
「ことばの多き」とは、しゃべりすぎのこと。
「問わず語り」とは、人が尋ねないのに自分から語ること。
「差しで口」とは、でしゃばってよけいな口出しをすること。
「人のもの言いきらぬうちに、もの言う」とは、人がまだしゃべっているうちに、それをさえぎって話し出すこと。
「話三分に聞き七分」という言葉がある。口は一つで耳は二つ。一つ語ったら二つ以上聴くのがコミュニケーションの基本のようです

2020年7月25日土曜日

NO288 「かえるがいる」

あなたは美術館へ行ったとき…あなたは「絵を見ていた時間」と、その下の「解説文を読んでいた時間」どちらのほうが長かったですか?おそらく、「ほとんど解説文に目を向けていた」という人がかなり多いはずです。とはいえ、「作品をじっくり鑑賞する」というのは、案外けっこう難しいものです。物事の表面だけを撫でてわかった気になり、大事なことを素通りしてしまっている…そんな人が大半なのではないかと思います。

「かえるがいる」

岡山県にある大原美術館で、4歳の男の子がモネの《睡蓮(すいれん)》を指差して、こんな言葉を発したことがあったそうです。「えっ、どこにいるの」と聞き返しました。この絵の中に「かえる」は描かれてないのです。その男の子はこう答えたそうです。

「いま水にもぐっている」

私はこれこそが本来の意味での「アート鑑賞」なのだと考えています。その男の子は、作品名だとか解説文といった既存の情報に「正解」を見つけ出そうとはしませんでした。むしろ、「自分だけのものの見方」でその作品をとらえて、「彼なりの答え」を手に入れています。
ビジネスだろうと学問だろうと人生だろうと、こうして「自分のものの見方」を持てる人こそが、結果を出したり、幸せを手にしたりしているのではないでしょうか?じっと動かない1枚の絵画を前にしてすら「自分なりの答え」をつくれない人が、激動する複雑な現実世界のなかで、果たしてなにかを生み出したりできるでしょうか?

~ 美術教師 末永幸歩さんより ~

所長視点)
創造性は人間にだけに与えられた能力です。人間らしさ=創造性 ともなります。いままでの価値観の囚われず、自分の心の奥の本心にフラットな心から溢れてくるものが創造性です。本心は第二の神様。本心の声が聞こえる生活を心がけていきたいものです

2020年7月24日金曜日

NO287 「心の状態が経営に写る」

つまり言いたかったことは「自分の周囲の現象は、すべては心の反映である。我々はそのためにより立派な人格者であるべきだ」と。まさに研究しているときに、考えたというか、こういう心境になったのです。それは、研究という全く物理化学的なことでありながら、研究しているその当事者の心の状態というものがじつは研究成果にまで反映するのです。これは経営を行う際にも当てはまります。みなさんの心の状態、心のあり方そのものが、自分の経営にそのまま生き写しのように写っていくのです。
いびつな人間性を持った人はいびつな経営になりますし、横着な人は横着な経営になります。恐がりで自信のない人はそのままの経営になります。大胆で横着な人は、それを写したような経営になります。その人の心の状態が、全部そのまま現れるのです。ですから、われわれは何をしなければならないかといいますと、自分が人格者でなければならないのです。

~ 稲盛和夫さんより ~

所長視点)
稲盛さんが人格を高めるために必要なこととしてあげているのが「利他の精神」です。自分の会社の社員を幸せにする、地域を幸せにする、お客さんを幸せにする。そのために常に勉強する、反省する。そうする中で人格が磨かれていく。
そういう50代、60代それ以上のお年寄りが増えていったら、未来は明るいものに成るような気がします

2020年7月23日木曜日

NO286 「させる/やらせる発想」

組織変革のための依頼をうけて、会社の幹部の方とワークショップや研修などの打ち合わせをすると「まずは問題意識を吐き出させて、そこからどうしたいのか議論させて…」といったように「させる/やらせる」という雰囲気が必ずと言っていいほど感じられます。状況をより良くしたいという熱意がせっかくあったとしても、その相手をコントロールしようとする発想自体が問題を生んでしまうので、それに気がつかない組織変革は何をやっても一時的なものになってしまいます。
「させる/やらせる」といった姿勢は「支配」を感じさせてしまうからです。誰もが「他人から指図されること」は嫌なはずなのに、それをする側になると、悪気なく「相手をコントロールする」ような考え方に染まってしまう。そこに人間の奥深さと不器用さがあるように思います。
もし組織で展開されるすべての企画や手段が、メンバー側に寄り添うように生まれているとしたら、その組織には何が溢れるか、雰囲気でどのようになるか?そこに問題の本質があります。「配慮を尽くそうとする姿勢」と「不器用な施策の背後にある配慮を感れる感度の高さ」そこに本当の変革の姿があるのではないかと思います

~ 中土井 僚さんより ~

所長視点)
誰もが「他人から指図されることや支配」は嫌です。いままでどんなに愛情を注いできた子供や友人、夫婦であっても同じです。人は変えることはできません。変えれるのは自分の姿勢です。どこまでも奥深く配慮していけるか?そこにWINWINはありません。計算せず、どこまでも配慮していけるか?ここが勝負です

2020年7月21日火曜日

NO285 「運動するほど時間が生まれる」

週1回の運動の日が確保できるようになると、週2回が確保できるようになります。週2回が確保できると、週3回が確保できるようになります。不思議ですが「集中時間術」の理論を知っていれば当然のことです。きちんと運動をすると、脳のパフォーマンスがアップするので、だらだらと仕事を続けるよりも、仕事効率は著しくアップします。それは1時間の運動時間を差し引いても、プラスになります。
さらに、運動によって睡眠が深まる効果で疲労も回復するので、翌日また100%の状態からスタートできます。さらに、運動を続けることで、頭がよくなり、脳のニューロンネットワークが緻密でタイトなものに再構築されていきますから、頭の回転が速くなります。同じ仕事を短時間でこなすことができますし、仕事の量も質もアップします。私の経験からの実感としては、まったく運動しなかった頃と比べると、1ヶ月の仕事量で2倍以上はこなしながら、自由時間も大きく増えているのです。これが「神・時間術」の真骨頂です。ですから「時間がない」という人ほど、運動すべきなのです。運動することで、間違いなく時間が生まれてきます。運動することで「1日が2倍になる」と言っても、まったく過言ではないのです。

~ 樺沢紫苑さんより ~

所長視点)
時間は1日24時間で代わりはありませんが、運動することで効率があがり、少ない時間で多くのことができるようになります。これがレバレッジ(てこの原理)です。そこで短縮されて、捻出された時間を更に効率があがるようなことに時間を当てる。そうすることで余裕をもって大きな実績を出すことができます。真の家庭づくりにも重要な要素ですね

2020年7月20日月曜日

NO284 「学ぶ」

二宮尊徳先生の有名な遺訓には、人間生まれたからには、終生、必ず学び続けなさい、と教えておられます。「学ぶ」とは、学校の勉強だけを意味しているのではありません。人の話を聞いたり、見学をしたり、自然から観察して教わること、本を読むこと、仕事をしながら体験することなど、どんなことからも、問題意識さえあれば、学ぶことはできると思います。そして、「学んだら必ず道を知りなさい」とおっしゃいます。人によって、職業や立場は違いますが、それぞれの職業や立場のあり方の本質を見極めなさいという意味です。つまり、ものごとの真の目的を理解すること。それはこの世の中に生きる人々を、幸せにすることであると考えます。
ですから、「道を知って行う」とは、人間の幸せのためにお役に立つという目的に向かって、暮らし、働くということだと思います。
いくつになっても、また立場が変わっても、人は学びつづけたいものです。
~ 伊那食品会長 塚越寛さんより ~

所長視点)
塚越さんは「会社は社員の幸せのためにある」を徹底している方で有名です。そして何よりも「掃除」を徹底される方でもあります。「経営ノウハウ、戦術、戦略、全て必要です。でも掃除は、もっと根源的な、人間的な精神(優しさ、思いやりなど)を構築するために大切なものだと思います」掃除から学ぶことは道につながるようです

2020年7月19日日曜日

NO283 「言葉のパワー2」

怒ることが、自分にとって損になるということが完全に頭に入ってしまうと、人間は声を荒げなくなります。イライラしなくなります。声を荒げイライラした結果、人間は自分で毒素を出して、その毒液が五臓六腑をどんどん痛めつけます。誰が一番損をするかというと、その言葉を発した本人なのですから。
こういう実験があります。一升瓶に普通の心理状態で息を吹き込め、そこにハエを一匹入れると40分くらいで窒息死しまう。ところが、激怒した状態の息を吹き入れて同じ実験をすると、中のハエは3分くらいで死んでしまいます。毒死です。人間が怒ったときは自分で気付かないだけで、毒気を吐いているのです

~ 小林正観さんより ~


所長視点)
臨床心理士の先生が「怒りは破壊行為です」といってました。怒るの物が壊れ、人が傷つき、自分も傷つきます。どんな理由であっても「怒り」からは幸せは産まれません。夫婦で親子で笑った回数が増えるほど、真の家庭に近づきますよ

NO282 「期待しない」

わが家には一つの合言葉があります。それは「期待しない」です。例えば、夫婦で映画を見に出掛けることになったとします。昔はよくケンカになりました。

「この映画を見に行こうって言ったのはあなたよ!無駄遣いしちゃったじゃない」
「だって、あちこちの新聞や雑誌でベタ褒めだったから」
「面白いって言うから、期待しちゃったのよ。ガッカリ…」

そうなのです。大いに期待していた。だからガッカリするのです。夫婦生活を20年以上も続けていると、少しは知恵がついてきます。何より大切なのは、夫婦がいつも仲良くいられること。いや、もっと現実的に話すと、いかにケンカをしないで最低限の平和を保っていられるか。それこそが「幸せ」だと気付きます。そこで、いつの間にか夫婦で生まれたのが、あの合言葉です。
「期待しない」といいことがあります。
私は妻に、「〇〇して欲しい」と求めない。
妻も私に、「△△して欲しい」と求めない。
お互いに「求めない」こと、「欲ばり」にならないことが、幸せな生活を送るコツになっているのです。
「期待しない」と、思わぬ喜びがあります。
「自分も忘れていたのに、誕生日に大好きなお店のケーキを買って来てくれた」
「『疲れたなぁ』と言ったら、マッサージしてくれた」
もし、これが「期待していたら」どうなるでしょう。
「誕生日なのに、何もプレゼントをしてくれない」
「疲れて仕事から帰って来たのに、テレビに夢中」
すべての「不幸」は自分の「欲」が招いたもの。
「期待しない」「求めない」ことが、「幸せ」な人生を送るためのキーワードなのです。

~ 志賀内泰弘さんより ~

所長視点)
ここでの「期待しない」は諦めとは違います。愛する生活の中において「期待しない」生活は味わいある生活。相手に対して「がっかりした」「怒った」「傷ついた」ときに「期待していた自分」に気づくことが重要です

2020年7月18日土曜日

NO281 「俺が俺が…」

個性を大切にすることは、多様性を確保するという意味でも大事なことですが、それが行き過ぎたのかどうか、どうも「俺が」「俺が」という弊害が見れます。それが利己的な人間の増加に拍車をかけているような気がします。近代社会は「個」というものを一番大切なものとして祭り上げてしまいました。しかし、本来、他者や周囲との関係性がない個というものはありえません。つまり、個は個だけでは存在できないのです。
自然界を注意深く観察すればわかりますが、ものごとはペアで存在しています。男と女、陽と陰、+と-、さらにDNAの二重らせん構造もペアという見かたができます。そうやって関係を持ちつつ、お互いを支え合い、助け合っています。個性は大切かもしれませんが、それを強調しすぎると、かえっておかしな世の中になってしまいます。
個性と並んで重要視されているのが、独創性です。科学でも独創性のある研究や考察が重視されますが、本来、純粋な意味での独創性というものはないのかもしれません。すべては自然の模倣にすぎないといえます。科学において、法則を発見することは高く評価されますが、それはもともと自然界にあったものです。科学はその後追いをして法則を見つけるだけです。もし、独創性ということを問題にするなら、カビのほうが人間よりもずっと独創的です。彼らは状況に応じて自分をどんどん変えていくことができるので、これ以上、独創的な存在はありません。病原菌も薬剤に対する耐性を身につけて、それが効かないように変化しながら生き延びていきます。

~ 筑波大学名誉教授 村上和雄さんより ~


所長視点)
個の大切さは関係性の中で現れます。個の価値は為に生きることで発揮されます。そこに幸せの本質があります。愛のために相対を創造した神様と同じですね。

2020年7月16日木曜日

NO280 「二歩後退 一歩前進」

幸せというものは、多くを持つことによって得られるのではなしに、今持っているもので満足することで得られるものです。今あるがままの状態で幸せはつくれるんです。貧乏であれば幸福な貧乏人になればいいわけで、それを初めから貧乏はダメだと決めつけ、金持ちになろうと焦るから不幸は始まる。
神様にあれこれ願い事をするのは宗教ではありません。ああしてください、こうしてくださいと請求書をつきつけるような祈りを、私は「請求書的祈り」と名づけています。本物の宗教心というのは、「私はこれだけのものをいただきました。どうもありがとうございました」という「領収書的祈り」なんです。弱い者は弱い者の役割を果たし、強い者は強い者の役割を果たし、ともに助け合って生きていくのが人間社会なんです。今の日本の平等主義は、個々の役割をわからなくし、自分の生き方を見えにくくしているのではないでしょうか。
自分の努力のほかに、大勢の縁の下の力や支えがあってこそ成功したんだという感謝の気持ちがない。失敗した人、成功できなかった下積みの人たちのことを、あれは努力が足りないからなんだと蔑む。これはおかしいんじゃないでしょうか。

二歩後退 一歩前進。

何歩後退しても、そこからまた一歩進めばいい。一歩しか進めないなら、そんなに急いで歩く必要はない。
~ ひろさちや さんより ~


所長視点)
「足りない」というアンテナを立てれば「足りない」ものが見えてきます。「足りている」というアンテナを立てれば、満たされたものが見えてくる。自然と感謝の思いが沸いてきます。あるがままの幸せを満喫する人生を送ってみたいものです

2020年7月15日水曜日

NO279 「言葉のパワー」

私たちは体調が悪いとき、よく愚痴や泣き言をこぼしているように思っているでしょうが、実は不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句という否定的な感情が肉体を蝕んでいるらしいのです。
私と親しいある外科医の話ですが、患者の家庭環境を分析した結果、怒鳴り合っている環境で生活している人と、穏やかな言葉が飛び交う家庭で生活している人とでは、明らかに前者のほうが病気になる確率が高いということがわかったといいます。宇宙の方程式からすれば、先ほどの実験のように、「ばかやろう」「つらい」「悲しい」といったネガティブな言葉が体内の水の細胞を破壊し、それが病気を招く原因となります。言葉の持つ力は大変なものです。肉体についてだけではありません。仕事も同じです。たとえば民宿の経営でいえば、家庭や職員が喧嘩していたり、いがみ合ったり、仲が悪かったりすると、外見は立派でも本当にお客さんが来なくなるという現象が実際に起きてしまいます。

~ 小林正観さんより ~

所長視点)
言葉がもつ波動は聞こえていてもいなくても、振動として伝わっています。それが相手の心に伝わったとき「なんか嫌だな」とは「なんか嬉しいな」といったものとして認識されます。そして人生で一番聞いている言葉は「自分が話した言葉」です。自分の言葉が、自分の心と体に影響を与え続けた結果が、今の自分の心と体の状態で現されています。

2020年7月14日火曜日

NO278 「手ぶらで生きる」

日本人は「平均」とか、「横並び」といった言葉が好きなようです。なんでも他人と同じくらいであれば安心するわけです。平均と自分を弾き比べて、上ならばほっと胸をなで下ろしたり、少々、誇らしい気分になったり、下の場合は不安になったり、焦りを感じたりする、というわけです。しかし、そもそも平均を意識することになにか意味があるでしょうか?横並びの人生なんてこの世にありえないのです。人はこの世に生を受け、死んであの世におもむきます。人生というその時間を、それぞれが自分の歩幅で歩んでいく…。そこに「平均」などはありません。
人生ということに引き寄せていえば、なにも持たない裸で生まれてきて、やはり、なにも携えずに死んでいくのが人の人生というものなのだ、ということ。「人生は、手ぶらで生きて、手ぶらで死ぬのがいい」ということです。
給料が平均より上だ下だ、といっても、そんなことは無に始まり、無に終わる人生の、小さな一局面、些細な断面でしかないのです。平均をはるかに超えたとしても、平均に遠くおよばなくても、それが自分の歩幅であり、そこでしか、たしかな人生の足跡を刻むことはできないのです。その足跡の連なりが人生です。ですから、誰一人として同じ人生を歩むことはありません。人の数だけ人生があるのです。そのことに早く気づいてください。
すると、「平均」を目安にすること、それを意識することの無意味さがわかってきます。

~曹洞宗徳雄山建功寺住職 枡野俊明さんより~


所長視点)
あるがままの環境を受け入れ、ありがままの自分を受け入れる…そこに人と比べるといった人生観が入る隙間はないようです。あるがままの環境も受け入れるには、こだわりのない手ぶらの人生が必要… もはや、悟りの世界?

NO277 「お先にどうぞ」

「お先へどうぞ…」
やさしくてうつくしい日本語ですね。
いいことは、他人(ひと)様を先に…
自分のことは後まわし。
遠い遠い、先祖の日本人がこんな美しい、暖かい言葉を残してくれたんです。
他人のことなんかそっちのけ自分さえよければ…
我先に、我先に…
とみんな夢中で突ッぱしる。
もう一度「お先へどうぞ…」という、うるおいのある美しい日本語で、お互いに呼びかけ合える世の中になって欲しいなあ…

~ 相田みつをさんより ~


所長視点)
デイビッド・ハミルトン氏は、『あなたの健康と幸福は、「お先にどうぞ」と言った回数で決まります』といいました。幸せは、「お先にどうぞ」「ありがとう」「お互い様」と心からいえる関係性から生まれます。世界の国々が〇〇ファースト…ではなく「お先にどうぞ」「ありがとう」「お互い様」と言い合える世界が天国なのかもしれません

2020年7月12日日曜日

NO276 「降ったら濡れる。酔ったら吐く」

「降ったら濡れる。酔ったら吐く」。これが私の座右の銘です。「雨が降ったら濡れればいい。車に酔ったら吐けばいい」というだけの話です。人間というものはどういうわけか、雨が降るか降らないかを心配します。曇り空を見上げて、傘を持って行こうかどうしようかと迷います。しかしちょっと考えてみてください。雨が降る、といっても単に天から水が降ってくるだけのこと。雨が降ったら濡れればいいでしょう。雨に濡れたからといって怪我をするわけではありません。雨に濡れてからだが冷えたら、帰ってきてから風呂に入って温まればいいのです。車に酔うのを心配する人がいます。しかし酔ったなら、ちょっと外に出て吐いてしまえば1、2分苦しむだけであとは楽になります。
私は「降ったら濡れる。たら濡れる。酔ったら吐く」をすべてにおいて適用しています。ですから今は、何をやっても、何が起こっても、心の底から楽な気持ちでめることができます。

~ 工学博士 武田邦彦さんより ~


所長視点)
状況が自分の思い通りにならないたびに心が持っていかれて「最悪…」「ひどい…」「なんで…」というのもありですが、避けられないものであるなら、すべてを受け入れて次を考える…これが心の定まった人の生き方です。過去に未来に心が振り回されると、大切な「今」を楽しめなくなります

2020年7月11日土曜日

NO275 「マイペンライ」

外国の文化を体験しに旅行するのが好きですが、なかでも好きなのが ”タイ” です。”国民性”が好きなんですね。さすが微笑みの国と言われるだけあって、ニコニコして大らかな人が多いように感じます。大らかなのを通り越して笑えるぐらい、テキトーなんですね。
タクシーも、平気で8人ぐらい乗せてくれますし。食事に行って、注文と違うものが出てきても、ニコニコして「それ食べて待っててね。」みたいな感じです。
そんな時、タイの人たちは「マイペンライ、マイペンライ」と、言います。マイペンライ=大丈夫 と、いう意味なんですね。
何があっても、マイペンライなタイ人です。私が乗っているタクシーが接触事故をおこした時がありました。たいしてスピードは出ていませんでしたが、その時もドライバー同士で「マイペンライ、マイペンライ」と言って笑顔で終わったんですね。驚くとともに 世界は、広いなぁ と感じました。ちょっと心が苦しくなった時、マイペンライ=大丈夫 と心の中でつぶやいてみてくださいね。タイ人のように大らかな気持ちになれるかもしれませんね。

~ 鈴木義一さんより ~


所長視点)
他の民族性に触れると参考になる部分と、日本の民族性に気づかせられる部分があります。日本の当たり前が、他の文化に触れると当たり前でない…そんなとき日本人としての誇りとアイデンティティを自覚できます。
MCでは毎月、第4日曜日に国際書写礼拝を行っています。世界の国々の方から、クイズ形式でお国紹介をしてもらいます。7/25のお国紹介は「タイ」になりますー

※6月は「韓国」でした。韓国にお嫁にいった方からYou Tubeでお国紹介をしてもらいました。よかったらどうぞ
                 ↓↓↓


2020年7月10日金曜日

NO274 「顔」

人間の顔というのは、神様から与えられたキャンバスだと私は思っています。そのキャンバスにどのような表情を描くか。それは個人の生き方や意識次第です。ハンサムだとか美人だとかはまったく関係なく、本当に美しい顔とは、今に感謝し、いきいきと生きている人の顔なのです。表情などどんどん変わっていくのだから、いちいち気をつかってはいられないと思うかもしれませんが、実はどんな表情をしているかで、その人の心のあり方がわかったりするものです。自分の内なる声を聞かず、不寛容であったり感謝の念が足りなかったりすると、過ぎたことにいつまでも怒りや不満、悲しみ、苦しみを持ち続け、先行きへの不安や心配、怖れ、猜疑、孤独に苛まれたりするものです。そしてそれが顔や、心身の不調和として現れます。

~ 東京大学医学部名誉教授 矢作直樹さんより ~


所長視点)
自分の内なる声に謙虚になることが、美しい顔につながり、身体の調子にもつながるようです。40過ぎたら自分の顔に責任をもつ、とも言われます。自分の顔は自分では見れません。その顔が心の反映なら、心を豊かに育むことが顔に責任をもつことにつながるのかもしれません

NO273 「人生のすべては自分の心が映し出す」

これまで歩んできた八十余年の人生を振り返るとき、そして半世紀を超える経営者としての歩みを思い返すとき、いま多くの人たちに伝え、残していきたいのは、おおむね一つのことしかありません。それは、「心がすべてを決めている」ということです。人生で起こってくるあらゆる出来事は、自らの心が引き寄せたものです。それらはまるで映写機がスクリーンに映像を映し出すように、心が描いたものを忠実に再現しています。それは、この世を動かしている絶対法則であり、あらゆることに例外なく働く真理なのです。したがって、心に何を描くのか。どんな思いをもち、どんな姿勢で生きるのか。それこそが、人生を決めるもっとも大切なファクターとなる。これは机上の精神論でもなければ、単なる人生訓でもありません。心が現実をつくり、動かしていくのです。

~ 稲盛和夫さん「心」より ~


所長視点)
宗教者でも心理学者でもない、経営者として利益、会社運営に携わってきた方の言葉ゆえに説得力があります。心の状態がすべてをきめる。自分の心を磨いていくのが私達の人生の本質になりますね

2020年7月7日火曜日

NO272 「頭がいいね」

大半の子どもができないような難しい問題を、家に持ちかえってやる気があるかどうかを尋ねるという実験があった。「頭がいいね」と褒められたグループでは、課題が楽しくないと答える子どもが多く、家で続きをやろうとする子どもの割合も少なかった。さらに、この難しい課題での自分の成績をみんなの前で発表させたところ、「頭がいい」と褒められたグループの子どもの約40%が、本当の自分の成績より良い点数を報告したのです。つまり、4割の子どもが自分をよく見せようとしてウソをついていたということです。

実験者のミューラーとデュエックは、それについてこんな見解を示している。

◎「頭がいい」と褒められた子どもは、自分は頑張らなくてもよくできるはずだと思うようになり、必要な努力をしようとしなくなる。
◎「ほんとうの自分は『頭がいい』わけではないが、周囲には『頭がいい』と思わせなければならない」と思い込む。
◎「頭がいい」という評価から得られるメリットを維持するため、ウソをつくことに抵抗がなくなる。

~ 中野信子さんより ~


所長視点)
頭がいいとかエリートだと言われて育ってきた人たちは、ある場面で平気でウソをつくことがある。自分の価値を下げないため、あるいは自分を守るための行動だ。しかし、ウソはいつかバレ、秘密は露見する。
教育は「頭がいい」と褒めるのではなく「努力や時間の使い方、工夫を褒める」
難しい問題にチャレンジし、面白がる姿を親がみせたいものです



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2020年7月6日月曜日

NO271 「だから何?」

人に指摘されて気づいたのですが、僕は毎日、尋常ではない量のメモをとっています。おそらく、人が1週間、いや、1ヶ月かけてとるメモの量を、平気で1日のうちにとります。なぜここまで狂ったようにメモをとるのか。それにはいくつかの理由がありますが、まず何より大切な理由が、この残酷なまでに時間が限られている人生という旅の中で、

「より本質的なことに少しでも多くの時間を割くため」

です。本質とはなにかというと、コピーではなく創造、代替可能物ではなく代替不可能物、ということ。つまり、クリエイティブで新たな知的生産につながる思考や、自分にしか思いつかないような代替不可能性の高い思考。これら価値のある本質的思考に1秒でも多く時間を割くために、メモをしているのです。

~ 前田裕二氏より ~


所長視点)
前田さんは、メモを取るだけでなくメモを見ながら「WHAT?」「HOW?」「WHY?」を投げかけ、物事を掘り下げてながら隣のページに書き込んていくそうです。情報をメモという形でインプットし、それを深堀りしアウトプットしていく。それが創造的な人生につながっていくそうです。
まずはメモをところから。そしてメモに対して「だから何?」を問いかけてみましょう

NO270 「腕の見せどころ」

以前の職場にいた同僚Gさんという方がいたのですが、この男、お気楽な性格をしていていつもニコニコしているせいか「お前は緊張感が足らん!」と、よく上司に怒られていたんですね。そんなGが朝、仕事が始まる前にパソコンを見てクスクス笑っています。覗いてみると、youtubeの”おもしろ動画”だったんですね。

「お前、朝から何見てんだよ。」

というと、

「朝は楽しい気持ちで仕事を始めるもんだよ。」

と、朝礼ギリギリまで笑っていたんですね。なんとも気楽なやつ…と思っていたんですが、心理学系の雑誌に載っていた研究によると、楽しくなるビデオを見た人の方が悲しくなるビデオを見た人よりも、問題をクリエイティブに解決することができるらしいんですね。ポジティブな雰囲気は頭を柔らかくし、ネガティブな雰囲気は考えを狭くしてしまうとのことです。できるだけ、楽しいことや良い感情をもたらしてくれる情報と接することが落ち込みや不安に対しても有効なんですね。

~ 鈴木義一氏より ~


所長視点)
「楽しい出来事があると楽しいけど楽しいことがなくて…」という方もいますが、楽しいことは自分で演出したほうが早いです。勿論、仕事や家事などやらないといけないことはあるなかでどう楽しむのか?は腕の見せどころです。どうせやるなら楽しむ工夫をしてみる、この遊び心が真の家庭づくりには必要です



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2020年7月4日土曜日

NO269 「どっちでもいい」

世の中の問題のほとんどは、どっちでもいい問題だ。神戸の近くの有馬街道に「右も左も有馬道(ありまみち)」という石碑がたっている。「どちらを行っても最後に合流する」という案内だ。どちらに決めようと、結局は有馬道のように、同じ道に行き着く。人生の大事な決定は、たいていは右か左か、やるかやらないかの二者択一だ。悩みに悩んだ末の選択は、どちらに転んでもそう大差はないということ。
松下幸之助翁のように、「学歴がなかったから成功した。ありがたい」と思う人もいれば、いい学校へ行ったがうだつがあがらず、毎日不平不満を言って鬱々とした人生をおくる人もいる。「学歴がなかったので、なにくそと人一倍勉強したことが成功につながった。ありがたい」「貧乏だったから貧乏を抜け出したいと思い成功した。ありがたい」、「病弱だったから人に任せることをおぼえて成功した。ありがたい」と松下翁は言う。つまり、学歴があるかないか、貧乏かお金があるか、病弱か健康か、ということも人生においてはどっちでもいい。置かれた状況や環境に文句を言わず、黙々とやるべきことをやり続けることができる人が、人生の成功者となる。置かれた状況に文句を言うのではなく、それをどう捉えるのかが問題なのだ。つまり、そこに「感謝」があるか、「おかげさま」の気持ちがあるか。
人生の多くの問題はどっちでもいい。

~ 西原宏夫氏より ~


所長視点)
どっちでもいい…というと適当なような気がしますが、どっちでもよくなかったら人間迷わないものです。どっちも一長一短あるから迷う。どっちに決めても、そのまま進めば必ず問題にぶつかります。そのとき迷いがある人は後悔しやすい。後悔せずに今の問題に向き合う人は「自分が決めた」という自覚がある人です。どっちに決めてもこの自覚があれば道は拓けます。なので迷っている時間がもったいない。

NO268 「愛のリトマス試験紙」

「愛とは相手に変わることを要求せず、相手をありのままに受け容れることだ」現代イタリアの劇作家ディエゴ・ファブリの言葉である。この言葉は「愛のリトマス試験紙」になると思っている。恋人どうしの愛であれ、夫婦の愛であれ、親子の愛であれ、一度このリトマス試験紙によってテストしてみるとよい。そうすれば、それが本物の愛であるか否かが分かるであろう。
たとえば、恋人どうしで、食事をするときの相手の食べ方がいやだと悩んでいる人がいる。どうしたら相手を変えることができるか…と質問されることが多いが、それのような質問が出てくるのは、その人が相手を愛していないからである。相手を支配しようとしているのであって、それは愛ではないのである。自分が変われないのであれば、その相手との恋はやがては冷めるであろう。
夫婦のあいだも同じである。二人は夫婦になってしまったのだから、その結婚を解消したくないのであれば、互いに相手を変えようとしてはいけない。自分のほうが変わろうとすべきである。それが結婚をつづけさせるうまいやり方である。
親子の関係だって、同じことがいえる。親は自分の希望を押しつけて、子どもを変えようとする。親から見た「いい子」にさせようとするのだが、それは親が子どもの支配者になろうとしていることである。真実の愛情を持った親であれば、あるがままの子どもを受け容れるのが、真の愛だかである。わが子の成績を一方的にしかる親は、所詮は支配者と知るべきである。

~ 宗教評論家 ひろさちや氏より ~


所長視点)
愛を本物にするかどうかは自分次第。ありのままを受け入れていった分だけ、愛の濃度が濃くなっていくのだと思います

2020年7月2日木曜日

NO267 「ルービックキューブ型」

勇気は「死ぬ」ことを望むことから生まれる。あえて虚空に一歩を踏み出して、初めて姿を現す未知の領域へと進もうとすること。それがリーダーシップの本質だ。
慣れ親しんだ領域から一歩踏み出すことは、誰にとっても居心地の悪さを伴うものであり、時には「こんなことをやったら、自分はどうにかなってしまうんじゃないだろうか?」「死んじゃうんじゃないか?」という気持ちが湧きあがってくることすらあります。
しかし、その先が見えない虚空に一歩踏み出すからこそ、出現する未来がある。この逆説がいまの時代で幸せを掴む本質であり、さまざまな複雑に絡み合った問題に直面する現代を生きる私たちにとって、蜘蛛の糸をたぐり寄せる深い知恵であると思います。

~ 中土井僚氏より ~


所長視点)
問題には「ジグソーパズル型」と「ルービックキューブ型」があるそうです。「ジグソーパズル型」は難しくても一つずつ克服していけば解決していける問題。「ルービックキューブ型」は一つを解決しようとすれば別の問題が生じたり、余計問題が複雑になってどこから手をつけていいかわからなくなるような問題。家庭の問題やいまの社会が抱えている問題は「ルービックキューブ型」。これを解決するには自分のこだわりを手放し、新しい自分に生まれ変わるような経験が必要だそうです。いままでの自分が死んで新たに生まれ変わる。その積み上げが幸せをもたらすのかもしれません

NO266 「ほんものは続く、続けるとほんものになる」

禅の修行道場に入った当初は、誰もが何もできません。座禅をするのも、もちろん、はじめてですし、お経をあげたこともない。まだ、外が暗いうちに起きたこともなければ、掃除を一生懸命にしたこともない、いわば、“ないない尽くし”の状態から修行に入っていくのです。ですから、毎日がきつい、つらい、しんどい…ことの連続です。
座禅は、すぐに足が痛くなりますし、背中も丸まる。日々の食事も質素で、そこに空腹感も加わって、「耐え難い」という思いに駆られます。否も応もなく、その日々がつづきます。ところが、不思議なもので、日数が経過するにつれて、きつさ、つらさ、しんどさが徐々にやわらぎ、そして、やがて、足が痛いと感じることもなくなり、正しい姿勢を保てるようになって、座禅が“サマ”になってくる。そうなるまでの目安はほぼ100日だとされています。
サマになるとは、言葉を換えれば、身につくということです。座禅の足はこう組む、手はこのかたちにする、姿勢はこう、呼吸は…といちいちチェックしなくても、自然にその姿になれる。それが身につくということでしょう。
身につくのは、くる日もくる日も、つづけることによって、習慣になった、その結果です。その意味でいえば、修行は“習慣づくり”である、といういい方ができるかもしれません。

~ 曹洞宗徳雄山建功寺 枡野俊明住職より ~


所長視点)
禅に「即今、当処(とうしょ)、自己」という言葉があります

“そのときその瞬間に”、“自分がいるその場所で”、“するべきことを自分でやる”。

そのことの大切さをいった言葉だそうです。これが、身につけるためのコツになります。一見簡単に思えますが、自分の今までの考えや思いが邪魔してなかなか出来ない、やっても続かないことが多いように思います