今日のお題
淡宕(たんとう)という言葉があるが、「宕」というのは、岩石が山の崖下だとか、あるいは森の中に、堂々たる大石としてでんと構えているさま、これが宕であります。
『酔古堂剣掃(すいこどうけんすい)』安岡正篤・MOKU出版
スケールの大きな、確乎(かっこ)として奪うべからざる力を持っている。
淡とは、一言でいうなら、甘いとも苦いとも渋いとも、なんともいえない妙味、これを淡という。
西郷南州の晩年はたしかに、「淡宕」という境地です。
あの人がたまたま官を去って、帰村したときに、村にはいろいろな問題があって、村長が泣き言を言いにやってきた。
そしたら、西郷さんが座りなおして、「そいじゃ、おいどんがやろうか」と言った。
村長はびっくりした。まさか明治新政府の参議・総督が田舎の村長になるわけない。
冗談だと思った。ところが冗談じゃない。西郷さんは本気で言うておる。
つまり西郷さんから言わせれば、自分の生まれた村の村長も、偉勲赫々(いくんかっかく)たる参議・陸軍大将も同じことなのであります。
スケールというか、こういう境地というのが、「淡宕」です。
なかなかここまで行く人はいない。人間もここまで行けば偉い。英雄・哲人の終わりには、時折こういう境涯がある。
誰にでもわかるのは大西郷の最後の風格、晩年の風格であります。
所長視点
いまある環境を誰のせいにするのでもなく、受け入れて、自分が責任をもとうとする生き方は 「淡宕」という境地。
人が成長していく姿なのかもしれません。
そいじゃ おいどんがやろうか…
かっこいいですね
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