今日のお題
修道者であっても、この世に生きている限り、煩わしいことに無縁であろうはずはなく、生身の人間である限り、傷つかないで生きていられるものではない。
いうも恥ずかしいような些細なことで心が波立つことがある。
先日も仕事を終えて修道院に戻り、廊下を通りながら「ただいま」と挨拶したのに、話し合っていた二人のうちの一人は、「お帰りなさい」といってくれたが、 もう一人は、何もいってくれなかった。
こんなことで傷ついてどうすると、よくわかっていながら、そんなことで心の中が波立つ自分を持てあましたのだった。
傷つきたいなどと夢にも思わない。
でも私は、傷つきやすい自分を大切にして生きている。
何をいわれても、されても傷つかない自分になったら、もう人間としておしまいのような気がしているからだ。
大切なのは、傷つかないことではなくて、傷ついた自分をいかに癒し、その傷から何を学ぶかではないだろうか。
思いやりというのは、自分の思いを相手に“遣る”ことだろう。
私が、挨拶を返してもらえなくて淋しかった、辛かったその思いを大切にして、「だから、他人が挨拶した時には挨拶を返してあげよう」と心に決めること、それが思いやりなのであって、それを可能にするためには、心のゆとりが要る。
このような心のゆとりをつくることを、私は若い時に一人の人から教えられ た。
その人は、傷だらけの自分に愛想をつかしていた私を優しく受け入れ、“傷 口”に包帯を巻いてくれた。
さらに、傷つくことを恐れなくてもいいこと、一生の間には何度も挫折を味わうだろうが、その度に立ち上がること、そして人間には、自己治癒力が与えられていることも教えてくれたのだった。
その時以来、私は強くなった。
傷ついても大丈夫という思いが心にゆとりをつ くり、傷から目をそむけることなく、自分で手当てすることを覚え、さらに他人 の傷に包帯の巻ける人になりたいとさえ思うようになった。
心に一点の曇りもない日など、一生のうちに数えるほどしかないのだ。心の中が何となくモヤモヤしている日の何と多いことだろう。
“にもかかわらず”笑顔で生きる強さと優しさを持ちたいと思う。
私の不機嫌は、立派な“環境破壊”なのだと心に銘じて生きねばなるまい。
私たちは、ダイオキシンをまきちらしてはいないだろうか。
他人、特に子どもたちの吸う空気を、自分の不機嫌で汚してはいないだろうか。
傷つきやすい、柔らかな心を大切に、そんな心しか持っていない自分をいとおしみながら、周囲の空気を少しでも温め、清浄なものにしてゆきたい。
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所長視点
「他人の痛みを思いやる人」は自分が痛みを経験し、そこから思いやりの心を育てることができた人だとすれば、私たちの心が傷つけられ、痛めつけられる機会も、満更捨てたものではないのかもしれませんね。
「そのおかげで、私たちは他人の痛みを思いやることができる人間になれました」
ってかっこよく言えたらいいけど、傷つくのはやっぱり怖いですね。
勇気の問題?!
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