今日のお題
西郷隆盛のその人格をしのばせる話が「西郷南洲遺訓」の中にある。
これは西郷自身が書いたのではなく、この言行録を書き残したのは、実は当時の庄内藩士たちである。
話は官軍と幕府軍が戦った奥羽戦争の頃にさかのぼる。
この戦いで、庄内藩は西郷の官軍に敗れた。
やがて、藩主自ら降伏を告げに西郷の軍本営に足を運んできた。
西郷はその藩主を迎えてうやうやしく礼を尽くし、平伏した後に藩主に対応したのである。
一見すると、どちらが戦勝側かわからないくらいだ。
それで西郷側に随行していた高島鞆之助は、思わず不平をもらした。
「先生、ただ今の応対はあまりではないですか、まるでこちらが降伏したようではありませんか」
すると、西郷は高島にこう答えた。
「あれでいい。相手は戦に負けて非常な恐れを抱いている。それなのに、なおこちらが尊大に構えては、藩主としても言うべきことも言えなくなるだろう」
弱い者、形勢不利にある者への深いいたわりの心である。
すでに白旗を掲げ、傷ついている者の傷口に塩をすりこむような無意味ないたぶりはやめよ、という思いやりの気遣いである。
翌日には、西郷は供も連れずに敵地を一人で巡視して歩いた。
まだまだ降伏に不満な藩士は大勢いたはずである。
その豪胆さに庄内の人々は驚いたが、それは単に豪胆というだけではなく、敵に対する人間的信頼感に裏打ちされた人徳と言うべきものだろう。
そればかりではない。
その後藩主が城を明け渡して出るときには、薩摩兵の宿舎の窓を閉めさせ、また宿舎の外にいる薩摩兵たちには、すべて後ろを向かせて敗軍の将である藩主の姿を見ないように命じたという。
敗軍の将に対する徹底した配慮を示したのである。
こうした西郷の深い心に触れて、庄内藩士たちはいたく感激した。
そして、彼らもまたその恩義をいつまでも忘れなかった。
その後、明治に入ってまだ西郷が中央政治に顔を出さない頃、藩士たちは西郷の人徳を慕って次々に鹿児島に西郷を訪ねた。
西郷と生活をともにし、その人格に触れ、学ぼうとした。
そのときに西郷が折々口にしたことを書き記したのが『西郷南洲遺訓』だったのである。
「清富」の思想/三笠書房
所長視点
本来、武道は、相手に勝ったとき、ガッツポーズをしたり、飛び上がったり、喜びのあまり満面の笑顔になる、という態度を戒めるそうです
特に、剣道では一本を取った時に、ガッツポーズなどをしたらその一本は取り消しです
武道のなかに流れる惻隠の情も、家族愛につながりますね
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